この仕事をやっているわけ

みなさん、こんばんわ。

MX代表のみなとです。
今日も、毎日のブログを書いていきます

工務店の皆さんの力になったら良いなと思って書いています。

感想などいただけるととても嬉しいです。
《《《2025年12月9日 エコ住宅をつくる中小工務店のためのブログ第1121号》》
もう今期は、16期になりました。

お陰様で、もう15年が終わって、16年目の冬になりました。

久しぶりに、創業時代を振り返りながら、ちょっと昔のブログ読んでいました。

で、その当時の頃って、今より文章力も低いしAIもないですから文章書くにしてもあんまり上手くないのですよね。

ということで、当時の話を書き直してみました。

よく過去の自分を見直すという話がありますが、私には全く隠すべき過去って無いんですよね。必要なら過去の浮気がばれた話も書けるっちゃ書けます。需要ないと思いますが。

短いですが、いじめられていた事も少しありますし、裏切りも過去にいくつかありましたが、いずれにしてもそんなに腹が立たないです。

そんな感じですね。これは多分反応しない練習をしたんだろうなと思うんです。これは別に機会を設けて囲いと思っています。

一本の電話から全てが始まった

ちょうど転職して1年目でした。栃木の機械メーカーから、大阪本社の商社に転職をしました。

そして、1年が過ぎ。1年が過ぎたんだという事実を噛みしめていました。

すると、その夜に母親から電話がありました。

お父さんが帰ってこない。

そこから起こたのが私をかなり追い詰めたんですね。ちょっと長くなるのですが聞いて下さい。

一人の営業マン

私の父親は、昭和10年生まれの営業マンだった。
オートバイの販売から始まり、ホンダが4輪に参入すると自動車販売へとシフトし、高度成長期を駆け抜けた「モーレツ営業マン」。家より会社にいる時間の方が長いような人だった。

父の勤めていた会社のオーナーの孫が、たまたま私の中学の同級生で、ある日こんな話を聞かせてくれた。

「お前の親父さん、昔スーパーカブを1か月で180台売ったらしいぞ」

1台10万円として月商1800万円。当時としては、常識では考えられない数字だろう。数字を上げることを至上命題に、会社を稼がせることにすべてを捧げていたのだと思う。

その後、4輪の販売でも頭角を現し、創業オーナーが亡くなる頃には、父は会社の役員にまで上り詰めていた。私とはまるで正反対の、「売って売って売りまくる」タイプ。光通信も真っ青な、そんな営業マンだった。

やがてオーナーはホンダから転身、三菱自動車のディーラーへと舵を切る。
ミラージュ、ラムダ、パジェロ。天下の三菱が満を持して送り出したクルマたちはヒットし、シェアは一時トヨタ・日産に次いで3位。パジェロはRVブームの象徴となり、パリ・ダカールラリーで篠塚建次郎が優勝したニュースは、日本中を沸かせた。(この写真はトヨタですが。)

しかし、三菱自動車の官僚的な体質が少しずつ露わになり、開発力でもトヨタ・日産・ホンダに大きく水をあけられていく。

「阪大卒のあいつが、どうして役員になれんのや」

父は時々、悔しそうにこぼしていた。当時の三菱には、東大卒以外は役員にしないという不文律があったと言われていた。現場で汗をかく人間よりも、学歴と体裁が優先される組織に、父は苛立ちを募らせていたのだろう。

当時、若い世代はすでにセダンから離れつつあった。
だが、その頃60代だった父には、その変化を肌で受け入れるのは難しかったのかもしれない。
それでも「会社を立て直さなければ」という一心で、彼が取った手段はリストラだった。

リストラ対象は、自分の部下であり役員でもあった2人。営業と総務のトップだ。オーナーも表向きはこの方針に同意していた。

ところが、そこでドラマのような逆転劇が起こる。
リストラを言い渡されるはずだった役員を含め、すべての部長職が結束し、今度は父に対して「退職勧告」を突きつけたのだ。
雇われ社長である父は、一気に包囲される形になった。
そしてオーナーは、あっさりとそちら側についた。

後日、父の腹心とも言える営業部長から、その時の話を聞いた。
退職勧告の前夜、管理職全員でサウナに泊まり込んだという。
「誰かが怖くなって抜けないように、全員で一晩いっしょにいたんや」
それほど父は恐れられていたのだ。パワーで会社を引っ張ってきたトップに刃向かうには、それくらいの覚悟が必要だったのだろう。

彼らは、父が激しく抵抗する姿を想像していた。怒鳴り、机を叩き、最後まで粘るだろうと。
しかし現実は違った。
父は、驚くほど静かに退職を受け入れたという。
「分かった」とだけ言い、紙を受け取り、席を立った——それだけだったそうだ。

その決定を受けて、父は会社を去った。
そして、その退任のその日のうちに父はそのまま入水自殺をした。

あまりに突然で、あまりに一方的な幕引きだった。

いつも父の寝床の周りには、たくさんの本が積まれていた。
読みかけのもの、まだページすら開かれていないもの。
背表紙には、経営、歴史、小説、哲学──さまざまなタイトルが並んでいた。

商談の数字を追いかけるモーレツ営業マンである一方で、
布団の上では本を開き、文字を通して何かを考え続けていた人だったのだろう。
仕事中心の人生に、読みきれなかった本の山が、どこか父の「未完」の部分を象徴しているようにも見えた。

父は膨大な遺書を残していた。退任が決まって、亡くなる間半日の間に10人以上にメッセージを残していった。
家族へ、取引先へ、会社の関係者へ、友人へ──
ありとあらゆる人に向けた長文の遺書が、読書家の父らしい癖字で何枚も何枚も書かれていた。

息子たちに向けたものもあった。
我々に、特に経営者を目指していた弟には、何があって自分の小さい城を持つ大切さが書かれてあった。まるで、自分に反対したオーナーに当てつけるように。

今になって思う。
きっと父は、その一通一通を書くたびに、自分の中で「死への意思」を一つずつ固めていったのかもしれない、と。
言葉を綴ることで、自分の決断に理由を与え、後戻りできない道を自分で舗装していったのではないか。

しかし、最後の走り書きが乗っていた車の中に残ってた。
「まだ死にきれない」

丁寧に書かれた長文の遺書とは違う、乱れた筆圧。
「まだ」という二文字に、ためらいと未練のようなものがにじんでいるように見えた。

本当は、どこかでまだ生きたかったのだろうか。
それとも、「これでいいのか」と自分に問い続けていたのだろうか。

読み切れなかった本の山と、読み切る前に閉じてしまった自分の人生。
何枚にもわたるきちんとした遺書と、その余白ににじむ「まだ死にきれない」という一行。

そのギャップの中に、モーレツ営業マンとしての父と、一人の弱くて揺れる人間としての父が、同時に存在している気がする。

二つの学び

この出来事から、私は二つのことを学んだ。

ひとつは、会社をやるのであれば自分でしっかりやること。
もうひとつは、恐怖とパワーで築いたリーダーシップは、いつか必ず破綻し、そのとき一番深く傷つくのは当人自身だということだ。

金沢の小さなディーラーで起きたこの出来事は、その後の三菱自動車の凋落と不思議なほど重なって見える。
東大卒のエリートたちが率いる本社は、自社の設計不良を隠蔽するという愚かな選択をし、世間の信頼は地に落ちた。

父の生き方は、決して褒められることばかりではない。
けれど、がむしゃらに働き、家族を養い、会社を支えようとしたその背中には、彼なりの「責任」と「愛情」が確かにあったと、今は思う。

そして、最後に残った
「まだ死にきれない」
という言葉は、父からの遺書というよりも、
これからを生きる僕に向けて
「お前は、生きるほうを選べ」
と静かに告げているメッセージのようにも思えてならない。

父が残したこの物語に、僕がどんな答えを返していくのか。
それを探し続けることが、僕なりの弔いであり、父へのささやかな敬意なのだと思う。

と、このあたりが私が会社をつづけている理由なのかもしれませんね。

久しぶりに彼のことを思い出してしまいました。

メルマガは3000号をこえて毎日書き続けています。ひと月に数回はためになったと褒められます。できれば、根気よく読んで。みてください。無料のメルマガのお申し込みはこちらから!

Posted by 湊 洋一